2007年05月01日

『バベル』鑑賞 7人体調不良 三重と名古屋 映画館『点滅シーンに注意』

2007年5月1日 東京新聞朝刊
 映画「バベル」を上映している名古屋市と三重県四日市市の映画館で、二十八日の公開以降観客七人が吐き気などの体調不良を訴えていたことが三十日、分かった。いずれも症状は軽く、館内で休んだ後に自力で帰ったという。このうち、名古屋市の「ミッドランドスクエアシネマ」は、点滅を繰り返すシーンで注意するよう呼び掛ける文書を配布している。

 映画では、開始から約一時間二十分後に菊地凛子さんが演じる高校生がクラブで踊る場面で、クラブの照明が一分程度、速い点滅を繰り返す。同館が配布した文書は「このシーンになりましたら、スクリーンから適度に目をそらされるか、直視し続けないことをお薦めします」としている。

 同館では二十八日に女性五人、二十九日には男性一人が体調不良を訴えた。配給会社に問い合わせたところ、「対応は劇場に任せる」との返答があったといい、同館は二十九日から上映前に文書の配布を始めた。
 また、四日市市の「109シネマズ四日市」でも二十八日、夫婦で見に来ていた年配の女性が上映中に体調不良を訴えた。
 バベルは菊地さんが米アカデミー賞助演女優賞にノミネートされるなど話題を呼んでいた。



【関連記事】

「バベル」観客ら体調不良 照明点灯シーン後
2007年05月01日(アサヒコム)
 公開中の映画「バベル」を、名古屋市や三重県四日市市の映画館で見た観客計7人が「吐き気がする」などと体調不良を訴えていたことがわかった。

 名古屋市中村区の映画館ミッドランドスクエアシネマによると、4月28、29両日で観客計6人が不調を訴えた。菊地凛子さん演じる高校生が踊るクラブで照明が1〜2分ほど点滅を繰り返す場面を見た後に気分が悪くなったという。

 同館は「スクリーンから適度に目をそらされるか、直視し続けないことをおすすめします」との文書を配ったり、上映10分前に係員が注意したりしている。

 四日市市の映画館でも1人が不調を訴えた。配給元のギャガ・コミュニケーションズは「他の映画館からそのような話はない。映画に問題があるとは思わない」と話す。
ラベル:バベル

2007年04月21日

映画「ロッキー・ザ・ファイナル」が、ロッキー作品として17年ぶりに復活

淀川長治さんの名解説が復活する
 「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」の名セリフがよみがえる。1998年に89歳で亡くなった映画評論家・淀川長治さんの名解説が一夜限りの復活を果たすことが18日、分かった。22日のテレビ朝日・ABC系「日曜洋画劇場」(後9・00)の40周年記念の特別企画として、淀川さんの解説が放送される。

 映画「ロッキー・ザ・ファイナル」が、ロッキー作品として17年ぶりに復活することから、同局はその公開に合わせてロッキーの前5作品の放送を企画。ロッキーの復活に合わせ、淀川さんの解説で95年に放送された「ロッキー4」の復活も決めたのだ。

DVD大反響 昨年12月、日曜洋画劇場40周年記念の事業の一環として、DVD「淀川長治の名画解説」を発売。映画本編が一切収録されず、解説者の解説のみという前代未聞のDVDだったが、これが予想を上回る売り上げを記録。ファンから大きな反響を呼んだことも、今回の復活企画の後押しとなったという。

 淀川さんの解説がテレビで流れるのは、98年の「ラストマンスタンディング」以来8年半ぶり。一夜限りの夢ながら“淀川ワールド”にどっぷりと浸れそうだ。



【関連ニュース】
「日曜洋画劇場」で 2007年04月20日15時18分
 テレビ朝日系の「日曜洋画劇場」で22日に放送される「ロッキー4/炎の友情」で、同番組のかつての解説者淀川長治さんの映画解説がよみがえることになった。

 今回の解説は、同作品が95年に放送された際に収録されたもので、ロッキーの最新作が公開され、ロッキーの久々の復活とともに解説も復活させることにした。「映画の拳闘はいろいろでましたけど、やっぱり『ロッキー』は本物ですね。きっと勝つだろうと思っても、あっけにとられますね。この素晴らしさ。これが映画ですね」。あの淀長節が楽しめる。

2007年04月19日

オダギリ、ぶっちぎりの1位! 嵐も堂々2位に。映画満足度 4月19日10時5分配信 @ぴあ

満足度ランキングで高得点をたたき出した『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』

雑誌「Weeklyぴあ」調査による、4月14日(土)公開の映画の満足度ランキングでは、『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』が満足度90.9点を獲得し、ぶっちりぎりの1位に輝いた。『東京タワー』は、動員ランキングでも4週連続1位だった『ナイト ミュージアム』を押さえ堂々1位。原作パワーの衰えを知らない結果となった。



2位には、嵐メンバー全員が出演した『黄色い涙』、3位にはアカデミー賞主演女優賞に輝いたヘレン・ミレン主演の『クィーン』がランクインした。2位と3位の差は、わずか0.2点と大接戦となった。

東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』は、リリー・フランキーの大ベストセラーをオダギリジョー主演で映画化。オカンには樹木希林、オトンには小林薫、そして若い頃のオカンには樹木の実娘の内田也哉子。“ボク”が過去を振り返りながら、“オカン”との思い出や愛情に包まれた生活、母と息子を取り巻く心優しい人々の愛と友情を描く。観客は「温かい気持ちになれた」「さわやかさと不思議な爽快感が残った」など、愛情溢れた親子のストーリーに大満足した模様。また福山雅治が歌う主題歌「東京にもあったんだ/無敵のキミ」(ユニバーサルJ)は、CD満足度ランキングで2位とこちらも高評価に。

『黄色い涙』は、多忙を極める嵐のメンバー全員が主人公となり役者に全力投球。「ひとり一人の演技が際立っていた」「嵐5人が昭和30年代にとけ込み、好演していてしんみりした」と、演技者として大きく成長した姿が高評価に繋がった。

今週は他に、カトリーヌ・ドヌーブとエマニュエル・ベアールといったフランス大物女優が競演した『輝ける女たち』、真田広之が船長役で出演した『サンシャイン 2057』が公開された。
ラベル:オダギリ

2007年04月17日

同時多発スパイダーマンはタブー! でも六本木は大変なことに!!

シネマトゥデイ 2007/04/17
 16日、アメリカの人気コミックを映画した大ヒットシリーズの第3弾、『スパイダーマン3』のプレミアが六本木で開催された。本作は5月1日から日本で世界最速公開が決まっていることから、今回のプレミアは通常のジャパンプレミアではなく、ワールドプレミアと呼ばれる“世界で最初に開催されるプレミア”となった。



 あいにくの雨の中、六本木のアリーナには多くのスパイダーマンファンが集まった。熱狂的なファンの中には、スパイダーマンのコスプレで会場入りしたファンの姿もちらほら見えた。海外メディアのイケメンレポーターがスパイダーマンのマスクを被って取材したり、彼女連れの一般人が全身スパイダーマンの衣装を着込んでいたり、中には女性のスパイダーマンもいたりと、スパイダーマンがいたるところに出没していた。

 本来スパイダーマンは1人しかいない設定なので、同時に存在することはタブーとされている。その証拠に、オフィシャルのスパイダーマンのスタントマンがパフォーマンスを披露した際には、スパイダーマンを演じたトビー・マグワイアは決して人前には現れなかった。それはミッキーマウスが同時に2人存在しないという、ディズニーランドの掟(おきて)と同じくらい厳格なものだ。

 しかし、この日はワールドプレミアというファンにとっては一大イベント。さすがの配給元のソニー・ピクチャーズも、熱狂的なファンを止めるのは不可能だったようだ。トビー本人も、この珍事件を楽しんだようだ。コスプレをしたファンに声を掛けられると、ちょっとびっくりしたような表情を見せたが「oh! ハーイ!!」と笑顔で応えていた。

2007年04月14日

「スパイダーマン」女優がUSJ満喫, オダギリジョー大阪市内で爆笑あいさつ「東京タワー」

2007年4月14日(土) スポーツニッポン

映画「スパイダーマン3」(5月1日公開)でヒロイン役の米女優キルスティン・ダンスト(25)が13日、大阪市のユニバーサル・スタジオ・ジャパンを訪れ、記念セレモニーに参加した。スパイダーマンの演舞に続いて登場。「ロサンゼルスのユニバーサル・スタジオにはローラーコースターなんてない。楽しそう。スパイダーマンのアトラクションも楽しみ」と気に入った様子。「日本は大好き。いつか(菊地)凛子と共演したい」と話した。




オダギリジョー大阪市内で爆笑あいさつ「東京タワー」

◆ 14日公開 ◆
 母と息子のつながりを描いたリリー・フランキー氏原作の映画「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」(14日公開)の試写会が11日、大阪市内であり主演オダギリジョー(31)、少年時代を演じた大阪府在住の田中祥平(10)、松岡錠司監督(45)が舞台あいさつした。

 この日のオダギリジョーのいでたちはワンピース調。いきなり観客を驚かせ、意気投合したという母親役・樹木希林(64)についても「芸能界の裏話を聞けた。人間として、個体として面白い方ですね」と語り爆笑を誘った。

 一方で、松岡監督が「原作の行間までも再現できた」と話すと「誰が見ても共感できる部分がある」とヒットに自信。その言葉通り、目頭を押さえる観客が続出していた。

2007年03月29日

シリーズ第5作「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」は7月21日より日本公開。

harrypotter.jpgハリー・ポッター役のダニエル・ラドクリフに続いて、ロン役のルパート・グリント、ハーマイオニー役のエマ・ワトソンが、シリーズ完結となる第7作「ハリー・ポッターと死の秘宝(仮題)」までの出演契約を交わしたことが明らかになった。エマ・ワトソンに関しては、先日、降板の噂も流れたが、これは単なるデマだった模様。2010年全米公開と言われている最終話まで、主要キャラクターが同じ役者によって演じられることが決定し、ファンはひと安心というところだろう。

 揃って続投することが決定した3人からは、それぞれ「ハリーを演じるのは、計り知れないほど名誉なこと」(ダニエル)、「ハーマイオニーから離れるなんて、私にはできないわ。彼女は私のヒーロー」(エマ)、「ロンを演じることを誇りに思っているし、この世界にいられることが嬉しくて仕方がないんだ」(ルパート)との公式コメントが配給元のワーナー・ブラザース映画から発表された。
 なお、シリーズ第5作「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」は7月21日より日本公開。



2007年03月20日

これまでの韓国映画興行成績ランキングについて

韓国映画興行成績ランキング

韓国
(配給会社、公開年度共に韓国公開時のもの)

【作品】  【配給会社】  【公開年度】  【観客動員数】
王の男 イーグルピクチャーズ
      シネワールド    2006年 1230万人

ブラザーフッド ショーボックス   2004年    1174万人

グエムル
漢江の怪物 ショーボックス    2006年 1112万人

シルミド シネマサービス 2003年   1108万人

友へ チング コリアピクチャーズ   2001年 818万人

トンマッコル
へようこそ ショーボックス 2005年 800万人

シュリ           1999年 621万人

頭師父一体2 CJエンタテインメント 2006年 610万人

共同警備区域JSA CJエンタテインメント 2000年 583万人

殺人の追憶 CJエンタテインメント 2003年 530万人

家門の危機 ショーボックス      2005年 530万人

花嫁はギャングスター コリアピクチャーズ 2001年 525万人

大変な結婚 シネマサービス 2002年 520万人

マラソン ショーボックス   2005年 518万人

同い年の家庭教師 CJエンタテインメント 2003年 510万人

猟奇的な彼女 シネマサービス 2001年 488万人




日本
(配給会社、公開年度共に日本公開時のもの)
       
【作品】  【配給会社】  【公開年度】  【観客動員数】

デイジー 東宝 2006年 視聴中 視聴中

タイフーン 東映 2006年 視聴中 視聴中

私の頭の中の消しゴム GAGA USEN 2005年 30億円  
四月の雪 UIP 2005年 27.5億円 270万人

僕の彼女を紹介します ワーナー 2004年 20億円 137万人

シュリ 松竹 2000年 18億円 130万人

ブラザーフッド UIP 2004年 15億円  

共同警備区域JSA アミューズ 2001年 11.6億円  

ボイス ブエナビスタ 2003年 10億円  

誰にでも秘密がある 東芝 2004年 9億円  

スキャンダル シネカノン、松竹 2004年 9億円  

シルミド 東映 2004年 6億円 50万人

2007年03月19日

韓国の映画作品について

韓国の映画作品(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)


あしながおじさん (韓国映画)
イルマーレ
淫乱書生
エンジェル・スノー

オールド・ボーイ
同い年の家庭教師

風のファイター
彼女を信じないでください

奇跡の夏
共同警備区域JSA

グエムル 漢江の怪物
殺人の追憶
サッド・ムービー

四月の雪
シネカノン
シュリ
シルミド
親切なクムジャさん

スキャンダル (韓国映画)

青春漫画
青春漫画〜僕らの恋愛シナリオ〜
絶対の愛



タイフーン/TYPHOON
多細胞少女
箪笥 (映画)

TUBE (映画)

デイジー (映画)

友へ チング
トンマッコルへようこそ

春が来れば

B型の彼氏

ブラザーフッド

ボイス (映画)
ほえる犬は噛まない
僕が9歳だったころ
僕の彼女を紹介します
ホテルビーナス (映画)

マイ・ボス マイ・ヒーロー
マラソン (映画)

Mr.ソクラテス

ヤンガリー

ラスト・プレゼント (韓国映画)
ラブストーリー (韓国映画)

力道山 (映画)
リメンバー・ミー
猟奇的な彼女

連理の枝

ロスト・メモリーズ

私の頭の中の消しゴム

八月のクリスマス

韓国映画 釜山国際映画祭について

韓国映画釜山国際映画祭
韓国映画(かんこくえいが)は、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、韓国国籍を持つ者または韓国の法人によって製作された映画で、ほとんどの場合、韓国人の映画スタッフと俳優で構成され、主に韓国国内の映画館等で公開される映画を指す。

釜山国際映画祭は特に有名
アジアでも有数の規模である釜山国際映画祭は、国内の映画振興にも大きな影響を及ぼしている。そのほか、韓国国内各地で中小規模の映画祭が開かれている。




韓国映画賞
以下4賞が代表的な映画賞といわれ、授賞式は主催または後援するテレビ局で生中継される。(カッコ内は授賞式の開催月)

百想芸術大賞[1](4月) - 主催:日刊スポーツ、中央エンタテインメント&スポーツ 後援:文化観光部、SBS
大鐘賞[2](7月) - 主催:韓国映画人協会、SBS、中央日報社 主管:SBSプロダクション 後援:文化観光部、映画振興委員会、韓国芸術団体総連合会、韓国映像資料院、韓国映画製作家協会、全国劇場連合会、ロッテシネマ、日刊スポーツ
大韓民国映画大賞[3](11月)- 主催:文化放送 後援:文化観光部、映画振興委員会
青龍映画賞(12月) - 主催:スポーツ朝鮮 後援:朝鮮日報社、韓国放送公社

【参考】
★釜山国際映画祭(プサンこくさいえいがさい、PIFF)とは、大韓民国釜山広域市で毎年10月頃に開かれる映画祭(1996年-)。国際映画製作者連盟(FIAPF)公認の特別長編映画祭(Competitive specialized feature film festival)である。【釜山国際映画祭公式サイト詳細記事へ】

「シン・ヒョンジュン出演」にせ映画、業社代表を拘束

「シン・ヒョンジュン出演」にせ映画、業社代表を拘束
innolife.net - 1時間前
「偽映画」の出演論難に巻き込まれた映画俳優シン・ヒョンジュン(Shinhyunjoon)事件が業社代表の拘束で一区切りついた。今月15日、ソウル蘆原警察では「インフォスター21」のチェ某代表を「映画と商品権事業などに投資すれば短時間で大きな利益を保障する」と投資者 ...【詳細記事へ】

日本 映画 作品 一覧(ま行)

映画作品一覧 > 日本映画 作品 一覧(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による)

日本の映画作品一覧(にほんのえいがさくひんいちらん)

日本映画のタイトルの一覧。

ま行

* 麻雀放浪記(1984年)
* 舞姫(1989年)
* 魔界転生
* マクロスプラス(1995年)
* 魔女の宅急便(1989年)
* マタンゴ(1963年)
* 祭りの準備(1975年)
* 劇場版 魔法陣グルグル(1996年)
* マルサの女(1987年)
* マルタイの女(1997年)
* 水戸黄門 天下の副将軍(1959年、東映)
* 耳をすませば(1995年)
* みゆき(1983年)
* 未来の想い出(1992年)
* 無法松の一生(1943年、1958年、1963年、1965年)
* 村の写真集 (2005年)
* ムルデカ 17805(2001年)
* 名探偵コナンシリーズ(1997年 - )
* めぞん一刻(1986年)
* 明治天皇と日露大戦争(1957年)
* メッセンジャー(1999年)
* モスラ(1961年、ほか)
* モスラ対ゴジラ(1964)
* もののけ姫(1997年)
* 桃太郎 海の神兵(1945年)
* 桃太郎の海鷲(1942年)


日本 映画 作品 一覧(あ行)

映画作品一覧 > 日本映画 作品 一覧(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による)

日本の映画作品一覧(にほんのえいがさくひんいちらん)

日本映画のタイトルの一覧。

あ行映画一覧

* ああっ女神さまっ(2000年)
* アオグラ AOGRA(2006年)
* 青の炎(2003年)
* アザーライフ(2006年)
* あずみ(2003年)
* あずみ2 Death or Love(2005年)
* アナザヘヴン(2000年)
* あぶない刑事シリーズ(1988年-1998年)
* 雨鱒の川(2004年)
* アンドロメディア(1998年)
* アンパンマン(1989年 - )
* 生きる(1952年)
* IZO(2004年)
* 稲村ジェーン(1990年)
* 犬夜叉シリーズ(2001年 - )
* いま、会いにゆきます (2005年)
* 芋川椋三玄関番之巻(1917年)
* ウォーターボーイズ(2001年)
* 薄れゆく記憶のなかで (1992年)
* 宇宙からのメッセージ(1978年)
* 宇宙人東京に現わる(1956年)
* 宇宙戦艦ヤマトシリーズ
o 宇宙戦艦ヤマト(1977年)
o さらば宇宙戦艦ヤマト(1978年)
o ヤマトよ永遠に(1980年)
o 宇宙戦艦ヤマト 完結編(1983年)
* 宇宙大戦争(1959年)
* 姑獲鳥の夏(2004年)
* ウルトラシリーズ
o ULTRAMAN(2004年)
o ウルトラマンカンパニー(1996年)
o ウルトラマンキッズ M7.8星のゆかいな仲間(1984年)
o ウルトラマン物語(1984年)
o ウルトラマンゼアス(1996年)
o ウルトラマンZOFFY ウルトラの戦士VS大怪獣軍団(1984年)
o ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT(2001年)
o 新世紀2003ウルトラマン伝説 THE KING'S JUBILEE(2003年)
o 長篇怪獣映画ウルトラマン(1967年)
o 甦れ!ウルトラマン(1996年)
* 駅前シリーズ (1958年〜1969年)
* 弟切草(2001年)
* 男たちの大和/YAMATO(2005年)
* 男はつらいよシリーズ(1969年-1996年)
* オトシモノ(2006年)
* 踊る大捜査線 THE MOVIE(1998年)
* 踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!(2003年)
* おもひでぽろぽろ(1991年)
* オールナイトロング(1992年)

日本 映画の歴史について考える

日本 映画の歴史(まとめ)

サイレント時代

* 1899年の映画

日本 映画の歴史は、1899年(明治32年)に始まる。この年の6月20日、短編ドキュメンタリー映画『芸者の手踊公開(東京歌舞伎座)。これは小西本店(後の小西六写真工業、現コニカミノルタ)の浅野四郎がゴーモン社製の撮影機にて芝・紅葉館で実写撮影し、駒田好洋が率いる「日本率先活動写真会」によって一般公開された。
同年、柴田常吉と駒田好洋が共同撮影した『ピストル強盗清水定吉』(日本初の劇映画)が上映され、主演の横山運平が日本初の映画俳優となる。
11月には、柴田常吉の撮影にて「紅葉狩」が撮影され、主演の市川團十郎 (9代目)、尾上菊五郎 (5代目)の出世作となった。※活動写真項も参照のこと
*初めてカーボンを利用した人工光線による撮影を試みた藤原幸三郎や夜間撮影を始めたキャメラマンがいる。彼らは現像などにも関わらざるを得ず、その時の枝正義郎、玉井昇、大洞元悟の果たした役割もある。

* 1900年の映画

3月、吉沢商店が国産映写機を発売する。
10月。浅草六区に「浅草電気館」(日本初の映画常設館)が開設され、着色無声映画が上映される。

* 1904年の映画

吉沢商店、横田商会らが日露戦争実写撮影班を現地に派遣。ドキュメンタリー映画が大ヒットする。

* 1907年の映画

大阪・難波千日前に横田商会活動写真販売部直営の常設映画館「電気館」(第一電気館、大阪初の常設映画館)が開業する。

* 1908年の映画

1月、吉沢商店が、東京・目黒行人坂上に映画撮影所「目黒撮影所」(日本初の映画撮影所)を開設する
京都の芝居小屋の狂言方であった牧野省三が横田商会公開用に監督した『本能寺合戦』(日本最初の劇映画)公開。牧野は翌年に、歌舞伎俳優の尾上松之助主演の『碁盤忠信』をヒットさせ、以降、尾上は「目玉の松ちゃん」の愛称で『豪傑児雷也』(1921年)などの作品で日本映画最初のスターとなる。
12月。有楽町・数寄屋橋きわに全館椅子席の映画館「有楽座」(日本初の全館椅子席の映画館、関東大震災で焼失)が開業。

* 1909年の映画

6月、「活動写真界」(最初の映画雑誌)創刊。

* 1910年の映画

10月、伊藤博文暗殺の瞬間が実写フィルムで撮影される。
11月。Mパテー商会(日活の前身のひとつ)が白瀬矗中尉の南極探検隊に撮影隊を派遣して、実録映画の撮影に成功する。

* 1912年の映画

9月、日本活動写真株式会社(略称日活)、横田商会・吉沢商店・Mパテー商会・福宝堂の既成4社の合併による日本で最初の大手映画会社として発足。

* 1913年の映画

10月。日本活動写真が「向島撮影所」(日本初の近代映画スタジオ)を建設し、新派の現代劇映画の製作を開始する。

* 1914年の映画

4月、映画会社、天然色活動写真(天活)が『義経一本桜』(日本初の着色映画)を封切り公開する。
東京シネマが定期ニュース映画を製作開始。

* 1917年の映画

日活と天活が漫画映画を製作開始。
警視庁が客席を男女別に規制する「活動写真取締規則」を公布。

* 1919年の映画

7月、「キネマ旬報」創刊。

* 1910年代後半には、欧米流の洗練された映画に変革しようする、日本映画の近代化運動「純粋映画劇運動」が起こる。その結果、日本初の女優花柳はるみを使った帰山教正監督の『生の輝き』(1918年)、田中栄三監督の『生ける屍』、小山内薫が指導し村田実が監督した『路上の霊魂』(1921年)などの作品が生まれた。

* 1920年の映画

松竹キネマ合名会社設立。
松竹キネマ合名社ができたときに、松竹が呼んだハリウッドの現役キャメラマン、ヘンリー小谷が果たした影響は大きい。彼がレフ板を華麗に用いて撮影したというエピソードは、日本が映画を単に映すという段階から、一歩進んで商品として、新しい芸術、メディアとしての映画のあり方を象徴するものだった。

* 1921年の映画

2月、芝居興行の「松竹」のキネマ部が本格的に映画事業に参入。「松竹キネマ」と改称して新発足
6月、「松竹蒲田撮影所」が誕生し、栗島すみ子が入社する。
帝国キネマ演芸(通称帝キネ)創立。同年、最初のアニメーション映画プロダクションである北山映画製作所成立。

* 1923年の映画

4月、日活の映画監督・牧野省三が同社を退社し、マキノ映画製作所を創立。
阪東妻三郎がマキノ映画からデビュー、のちに嵐寛寿郎のように、歌舞伎界から移籍し、映画俳優となるケースが続く。
12月、八千代生命が東亜キネマ株式会社が創立する。
*日本の映画史が二分されるというべき大事、つまり関東大震災が起きた年に米国ではパンクロマティック・フィルムが発売された。この映画技術上のフィルムの進歩が白黒映画に大きな表現力を与えた。それまでのオーソクロマティック・フィルムは赤と黒の区別がつかず、唇が真っ黒に写ってしまうが、パンクロマティック・フィルムの導入と照明におけるカーボン・ライトからタングステン・ライトへの転換は、陰影を基調とした日本映画を大きく発展させることになる。

* 1924年の映画

活動写真の全国統一的な検閲作業が内務省の所管ととなる。
12月、キネマ旬報社、年間ベスト・テン映画選奨始める。

* 1925年の映画

7月、内務省、活動写真検閲全国統一を行う。
9月、阪東妻三郎、独立プロダクションを設立。名作『雄呂血』を製作する。

* 1926年の映画

阪東プロダクションが京都の太秦村に「太秦撮影所」(現東映太秦撮影所)を開設する。

* 1927年の映画

12月、京都の郊外・太秦村に「日活太秦撮影所」(後の大映太秦撮影所)が開設される。

* 1928年の映画

4月、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵が独立プロダクションを設立。嵐寛プロには山中貞雄、千恵プロには稲垣浩、伊丹万作などの優れた映像作家を輩出した。

* 1929年の映画

2月、日本プロレタリア映画同盟(プロキノ)創立。

* 当時は、セリフだけではなく内容を語りで表現して解説する活動弁士(弁士)付きで上映された。
* 1923年の関東大震災、第二次世界大戦の戦災で、燃えやすかったフィルムは消失、散逸し、この時期の作品は残存していないケースも多い。
* 溝口健二(『東京行進曲』(1929年)ほか)、小津安二郎(『大学は出たけれど』(1929年)ほか)などの監督も、若き日にサイレント作品を手がけ、のちの世界的評価を受ける作品の礎を築いている。
* 1920年代では、ヘンリー小谷監督「島の女』(1920年)、野村芳亭監督『夕刊売り』(1921年)。二川文太郎監督『雄呂智』(1924年)、衣笠貞之助監督『狂った一頁』(1926年)、伊藤大輔監督『忠次旅日記』(1927年)などが話題を呼んだ。

1930年代

* 1930年の映画

2月、鈴木重吉監督『何が彼女をさうさせたか』がヒット。内田吐夢監督『生ける人形』、溝口健二監督『都会交響曲』、伊藤大輔監督『新人斬馬剣』などの傾向映画(左翼思想を背景に社会矛盾、階級対立をテーマとした映画)が全盛となる。

* 1931年の映画

帝キネが解散して新興キネマとして再生する。

* 1932年の映画

五所平之助監督の『マダムと女房』(日本初のトーキー映画)が公開。トーキーの流行で、弁士、楽士らの反トーキー・ストライキ起きる。またトーキーの登場は、採算面から独立プロを直撃し、映画製作は映画会社が専門的に行う傾向が高まる。
入江たか子、女優で初の独立プロダクションを設立、溝口健二が参加。
小林一三が映画興業に進出して「写真化学研究所(PCL)」(現・東宝の前身のひとつ)を設立する。
11月、「宝塚キネマ」が設立される。コダックの日本代理店だった「長瀬商会」(現・長瀬産業)が京都の映画フイルム現像工場を分離独立させて「極東フィルム研究所」(後の極東現像所、現イマジカの前身)を設立する。

* 1933年の映画

上原謙が立教大学の学生から松竹入社。新たな映画スターのタイプを作る。
3月、「映画国策建議案」衆議院で可決。映画法などの先駆け。官僚統制が始まる。
6月、銀座に「大都映画」(後の大映の前身のひとつ)が設立される。

* 1934年の映画

1月、富士写真フイルム創立、国産フィルム量産を発表。同月、日活が現代劇部門を「多摩川撮影所」に移転。
2月、正月に有楽町に「東京宝塚劇場」をオープンさせた小林一三が本格的に東京進出を図り、映画館「日比谷映画劇場」を開場。
3月、内務省が映画統制委員会を設置。
日活京都撮影所の企画部長の永田雅一が退職して「第一映画撮影所」を設立。川口松太郎、伊藤大輔、溝口健二や山田五十鈴らが参加した。

* 1935年の映画

11月、映画の国家統制機関「大日本映画協会」が設立される。
12月、有楽町の日本劇場の地下に戦況ニュース映画・短編映画を上映する専門館「第一地下劇場」(日本初のニュース映画館)がオープン。

* 1935年あたりから榎本健一がドタバタ喜劇で人気急上昇。

* 1936年の映画

松竹キネマが松竹蒲田撮影所を神奈川県鎌倉の大船に移転し「松竹大船撮影所」が開設される。以降、大船調と呼ばれる独自のカラーを作った。
映画監督の自主独立・相互扶助などを目的に「監督協会」(現日本映画監督協会)が誕生する。
10月、京都にニュース映画専門館「松竹京都ニュース劇場」(関西初のニュース映画館)が開館する。

* 1937年の映画

2月、小林一三が東京錦糸町に「江東楽天地」(現東京楽天地)を設立する。
4月、松竹キネマが演劇興行の「松竹興行」と合併し、映画・演劇を一元化を図り「松竹」と改称して新発足する。
5月、大阪に「大鉄映画劇場」(現きんえい)が設立される。
8月、満州国の国策映画制作会社「満州映画協会」(満映)が設立される。
9月、東宝映画会社発足(写真科学研究所、PCL、東宝映画配給、JOスタジオが合併)。
11月、林長二郎が暴漢に襲われ、重傷を負う(林長二郎事件)。長二郎が松竹から東宝に移籍したことから、新興キネマ京都撮影所長の永田雅一らに教唆され、犯行におよんだもの。林長二郎はこの名を松竹に返し、本名の長谷川一夫を名乗るようになった。
輸入配給会社「東和商事」(現東宝東和の前身)の川喜多長政が「新しき土」(日本初の日独合作映画)をアーノルド・フランク、伊丹万作監督、円谷英二の特撮で制作する。
独立プロ「片岡千恵蔵プロダクション」が解散し、社員全員が日活京都に入社。嵯峨野の撮影所は「日活京都第二撮影所」となる
独立プロ「嵐寛寿郎プロダクション(第二次)」が解散し、嵐寛を除く社員全員が新興キネマに入社する。
*この年を頂点として日本の白黒映画の黄金期が訪れ、次々と名キャメラマンも生まれた。サイレント映画時代から『狂った一頁』などで知られていた杉山公平、『浪人街』『浪花悲歌』『祇園の姉妹』の三木稔、『人情紙風船』ではハリウッドでグレッグ・トーランドの助手をしていや三村明、また『土』の碧川道夫、『五人の斥候兵』の伊佐山左三郎、『川中島合戦』の三浦光雄など多くのキャメラマンが個性を発揮し、それは戦後の黄金期まで続いた。

* 1938年の映画

3月、東和商事(現東宝東和)の製作の日本と満州映画協会の協同作品『東洋平和の道』が帝国劇場にて上映される。
4月、「支那事変特別税法」が施行され、映画館に映画入場税が課税(映画入場税の始まり。平成の消費税の導入で廃止)。
12月、松竹の女優、岡田嘉子が演出家の杉本良吉と共に樺太国境を越え、ソビエトに亡命する。
東横映画設立。
大阪毎日新聞がニュース映画、文化映画を製作する映画部(現・毎日映画社)を設置する
神戸の富豪、池長孟(のち淀川長治の姉と結婚)が、アメリカから輸入したカラー映写フィルムで東京・大阪・神戸の市街を映写撮影する。

* 1939年の映画

4月5日。「映画法」(映画の事前検閲など国が直接に映画内容に関与した法律。1945年11月廃止)が公布。自由な映画製作が不可能となる。

* 佐藤武監督『チョコレートと兵隊』(1938年)がのちの太平洋戦争中、アメリカ国務省が編成した対日宣伝研究プロジェクト・チームによって、日本人の国民性研究の最も適当なテキストと考えられ、英語字幕を入れて研究試写に使われた。
* 30年代では伊丹万作監督『国士無双』(1932年)、『赤西蠣太』(1936年)、小津安二郎監督『生まれてはみたけれど』(1932年)、山中貞雄監督『抱き寝の長脇差』(1932年)、『丹下左善余話百万両の壷』(1935年)『人情紙風船』(1937年)、内田吐夢監督『人生劇場』(1936年)。成瀬巳喜男監督『妻よ薔薇のやうに』(1935年)、溝口健二監督『浪華悲歌』、『祇園の姉妹』(1936年)、野村浩将監督『愛染かつら』(1938年)、山本嘉次郎監督『綴形教室』(1938年)などの作品が発表された。

1940年代

* 1940年の映画

1月、主要六大都市で「文化映画」の上映が強制上映となる。
12月、「映画之友」「キネマ旬報」などの映画雑誌が全て廃刊。(映画雑誌の定期刊行物統制の始まり)。

* 1941年の映画

1月1日から全国の映画館でニュース映画・文化映画の強制上映が開始される。

* 1942年の映画

1月、新興キネマ、大都映画、日活の製作部門、が合併して大日本映画製作株式会社(戦後の大映)発足。この戦時統合により、映画会社が松竹・東宝・大日本映画製作の3社に集約される。
山本嘉次郎監督+円谷英二特撮監督『ハワイ・マレー沖海戦』(日本初の特撮映画)が公開。

* 1943年の映画

3月、アニメ作家瀬尾光世の『桃太郎の海鷲』(日本初の長編アニメ映画)が海軍省の後援で公開上映。
9月、大政翼賛会の要請により映画上映前に軍歌「愛国行進曲」「海ゆかば」が流されるようになる。
東宝の黒澤明が『姿三四郎』、木下恵介が『花咲く港』で監督デビューし、共に「国民映画奨励賞」を受賞する。

* 1944年の映画

4月、瀬尾光世による長編アニメ『桃太郎 海の神兵』が公開上映。
12月、映画フィルムが欠乏し、全国731の映画館に対し供給が停止。

* 1945年

8月15日、終戦。
GHQによる映画管理が始まり、空襲で焼け残った戦前の映画作品の大部分が処分され、時代劇も禁止された。民主啓蒙映画や反封建的な時代劇は許可された。
11月、各映画会社、従業員組合結成
12月、映画法廃止

* 1946年

1月、GHQの映画検閲が開始

* 1947年

1月、新東宝映画製作所設立
7月、東横映画株式会社設立

* 1948年

3月、黒澤明ら「映画芸術協会」設立
8月、東宝争議起こる。撮影所を占拠した組合員に対し武装警官や占領軍の戦車や飛行機まで出動するまでに至る
組合主流の共産主義者たちの態度に反撥した映画スタッフを中心に新東宝が設立される。
日本映画監督協会が復活。

* 1949年

6月、GHQの要請で映画倫理規定管理委員会(映倫)発足
10月、東映の前身、東京映画配給株式会社設立

* 40年代では伏水修監督『支那の夜』(1941年)。稲垣浩監督『江戸最後の日』(1941年)。山本嘉次郎監督『加藤隼戦闘隊』(1944年)。木下恵介監督『大曾根家の朝』(1945年)。黒澤明監督『わが青春に悔なし』(1946年)、『醉いどれ天使』(1948年)、『野良犬』(1949年)。吉村公三郎監督『安城家の舞踏会』(1947年)。伊藤大輔 監督『王将』(1948年)、小津安二郎監督『長屋紳士録』(1947年)、『晩春』(1949年)。今井正監督『青い山脈』(1949年)などの作品が発表された。

1950年代

* 1950年

3月、近代映画協会設立
5月、岩波映画社設立
東横映画と大泉スタジオが合併し、東映株式会社発足。

* 1951年

木下恵介監督『カルメン故郷に帰る』(日本初のカラー長編)が公開される。
日動映画(1955年に東映動画)創立。アニメーションのプロダクションとしては最大手となる。

* このころ、映画界にレッドパージが広まる。137名追放。
* 1952年

大映、東宝、松竹、東映、新東宝が相互に俳優その他の引き抜きをしない旨の秘密協定「五社協定」を結ぶ。

* 1953年

日活製作再開発表。
12月、『聖衣』(シネマスコープ第一作)公開

* '1954年

2月、東映、2本立て興行を開始
東宝で本多猪四郎監督+円谷英二特撮監督『ゴジラ』公開。怪獣映画流行の始まり。

* 黒澤明監督『羅生門』(1951年)のヴェネチア国際映画祭グランプリ受賞を皮切りに、日本映画の海外評価が高まる。1950年代前半の海外映画賞受賞は以下の通り。

* 黒澤明監督『羅生門』(1951年)ヴェネチア映画祭グランプリ
* 溝口健二監督『西鶴一代女』(1952年)ヴェネチア国際映画祭国際賞
* 溝口健二監督『雨月物語』(1954年)ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞受賞
* 黒澤明監督『生きる』(1954年)ベルリン映画祭銀熊賞
* 黒澤明監督『七人の侍』(1954年)ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞受賞
* 溝口健二監督『山椒大夫』(1954年)ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞
* 衣笠貞之助監督『地獄門』(1954年年)カンヌ映画祭グランプリ

* 1950年代は日本映画産業の頂点であった。黒澤明、小津安二郎、円谷英二などの作品は、後にスティーブン・スピルバーグ、フランシス・フォード・コッポラ監督等、海外の映画監督の作品に多大な影響を与える事となる。特に『ゴジラ』と『七人の侍』は映画界に革命をもたらしたと言われる。各社の動向は以下の通り。

東映

新作2本立ての量産体制を強行するために子供向けの連続活劇形式の短編を長編に併映する。中村錦之助、東千代之助出演の『新諸国物語 笛吹童子』シリーズ(1954年・三部作)、中村錦之助、東千代之助出演の『新諸国物語 紅孔雀』(1954年・五部作)が子供達に圧倒的に受ける。また、市川右太衛門、片岡千恵蔵、月形龍之介、大友柳太朗出演の、大人向け時代劇も活性化。中村錦之助、大川橋蔵主演作とともに、東映は時代劇王国としての地位を築く。一方、東映現代劇からは1950年代半ばから1960年代前半にかけ江原真二郎、中原ひとみ、高倉健、佐久間良子、梅宮辰夫、三田佳子、千葉真一、大原麗子らがデビュー。今井正監督『米』(1957年)などの現代劇の秀作、ヒット作も残した。また1958年10月、日本初の長編カラーアニメ映画『白蛇伝』(宮崎駿がアニメ界に入るきっかけの一つとなった作品と言われる)公開するなど、日本アニメ映画の中興の祖としての役割、東映シネマスコープの導入で日本映画のワイド時代を招聘した役割なども特筆的である。

東宝

森繁久弥出演の『三等重役』より、サラリーマンシリーズ、社長シリーズ、駅前シリーズが大ヒット。東宝の経営を支えた。今井正監督『また逢う日まで』(1950年)、『純愛物語』(1958年)、ヴェネチア国際映画祭グランプリを受賞した稲垣浩監督『無法松の一生』(1958年)、成瀬巳喜男監督『浮雲』(1955年)、岡本喜八監督『独立愚連隊』(1959年)などの秀作やヒット作も生み出した。また東宝争議により一時東宝を離れていた黒澤明は、『生きる』(1952年)を皮切りに、『七人の侍』(1954年)、『隠し砦の三悪人』(1958年)などの傑作にして大ヒット作を連発。だが、莫大な制作費をかける面もあって、1959年、黒澤プロダクション発足する。その後も東宝とのパートナーシップは続いた。『七人の侍』も公開されていた1954年には、ゴジラシリーズがスタートし、1975年まで続くドル箱シリーズとなった。以降、小田基義監督+円谷英二特撮監督『透明人間』(1954年)、本多猪四郎監督+円谷英二特撮監督『獣人雪男』(1955年)、など特撮作品でヒットを飛ばす。東宝映画1000本の記念作品は特撮映画で、稲垣浩監督+円谷英二特撮監督による『日本誕生』(1959年)だった。

松竹

大庭秀雄監督による『君の名は』(1953年〜1954年)を筆頭に、今井正監督『にごりえ』(1953年)、『キクとイサム』(1959年)をはじめ文芸作が大ヒット。小林正樹監督『人間の條件』(1959年〜1962年)ではヴェネチア国際映画祭サン・ジョルジュ賞、パシネッティ賞など、海外で評価を集めた作品も手がけた。さらに福田晴一監督・伴淳三郎出演『二等兵物語』など、松竹がお得意とする喜劇作品もヒットした。木下恵介監督が『二十四の瞳』(1954年)、『野菊の如き君なりき』(1955年)、『喜びも悲しみも幾歳月』(1957年)、『楢山節考』(1958年)などの名作を連発し、小津安二郎監督も『麦秋』(1951年)、『早春』(1956年)、そして「日本映画の最高傑作」とも評される『東京物語』(1953年)などを発表した。

日活

1953年の製作再開以降、市川崑監督『ビルマの竪琴』(1956年)などの文藝作を制作していた。五社協定により有力なスターを他社から引き抜けないため、石原裕次郎、小林旭、浅丘ルリ子、赤木圭一郎、宍戸錠、二谷英明、川地民夫、待田京介、和田浩治などの自前のスターを作り出し、若年向けの青春映画や無国籍アクション映画を製作·配給した。なかでも古川卓己監督『太陽の季節』(1956年)、中平康監督『狂った果実』(1956年)、井上梅次監督『嵐を呼ぶ男』(1957年)、田坂具隆監督『陽のあたる坂道』、蔵原惟繕監督『風速40米』(1958年)などの石原裕次郎主演作が一世を風靡する。川島雄三監督『幕末太陽伝』(1958年)などのカルト作品も残している。

大映

1950年代から1960年代前半にかけて長谷川一夫を筆頭に三大女優京マチ子、山本富士子、若尾文子そして市川雷蔵と、日本映画史に残る大スター達を擁し、さらに他社専属やフリーの高峰秀子、鶴田浩二、岸惠子らも出演し、溝口健二監督『近松物語』(1954年)、吉村公三郎監督『夜の河』(1956年)などの名作を多数送り出した。中でも市川雷蔵主演作が人気を呼び、森一生監督『薄桜記』(1959年)、伊藤大輔監督『弁天小僧』(1959年)などの時代劇の他、市川崑監督『炎上』などの文藝作もヒットした。

* このほか、新藤兼人監督『原爆の子』(1952年)、山本薩夫監督『真空地帯』(1953年)、今井正監督『真昼の暗黒』(1956年)などの独立系映画も活発に制作・公開。1957年には勅使河原宏や羽仁進などの若手映画人らがグループ「シネマ57」を結成し、実験映画の製作などを行っていた。

1960年代

* 1960年に日本映画の製作本数は574本(日本映画史上最高)。日本映画の黄金期のピークを極める。だが1961年に新東宝が製作中止(実質的な倒産)するなど、崩壊は始まっていた。1960年代後半になると、テレビの普及等に伴い、次第に日本映画は集客力を失い、縮小再生産を繰り返してきた。大手五社の流れは、以下の通り。

東映

観客動員No.1となった東映は、1960年に第二東映(1年後にニュー東映と改称)を設立し、制作本数を倍増して日本映画界の売上50%のシェアを目指したがうまくいかず、2年で解散。映画不況が始まった1960年代から1970年代初めは鶴田浩二、高倉健、藤純子(現・富司純子)らを擁して仁侠物ブームを作った(東映任侠映画)。この年代の東映の代表作、人気シリーズは以下の通り。

* 宮本武蔵(1961年)内田吐夢監督:中村錦之助主演
* 飢餓海峡(1965年)内田吐夢監督
* 博奕打ちシリーズ (1968年〜72年)鶴田浩二主演
* 日本侠客伝シリーズ(1964年〜71年)高倉健主演
* 網走番外地シリーズ(1965年〜67年)石井輝男監督:高倉健主演
* 新網走番外地シリーズ(1965年〜72年)高倉健主演
* 昭和残侠伝シリーズ(1965年〜72年) 高倉健主演
* 兄弟仁義シリーズ (1966年〜71年) 北島三郎主演
* 緋牡丹博徒シリーズ(1968年〜72年)藤純子(現富司純子)主演)
* 極道シリーズ(1968年〜74年)若山富三郎主演
* 女囚701号さそりシリーズ(1972年〜73年)梶芽衣子主演
* 不良番長シリーズ(1968年〜72年)梅宮辰夫主演
* 夜の盛り場シリーズ(1965年〜74年)梅宮辰夫主演
* 東映まんがまつり(1964年〜1990年)

東宝

植木等主演の無責任シリーズや加山雄三主演の若大将シリーズでヒットを飛ばす。また、社長シリーズや駅前シリーズなど安定したプログラムピクチャー、昭和ゴジラシリーズ、『モスラ 』などの特撮怪獣映画路線などを持っていたことも強みだった。黒澤明は、引き続き黒澤プロダクションとの東宝共同製作で、『用心棒』(1961年)、『椿三十郎』(1962年)、『天国と地獄』(1963年)、『赤ひげ』(1965年)などの作品を発表する。1969年にアメリカの20世紀フォックス社の戦争映画『トラ・トラ・トラ!』の脚本と監督を依頼された黒澤は、最終編集権が監督にないハリウッドのシステムに反発。撮影が容易に進まず、激しい心労の末に解任され、自殺未遂事件を起こす。この年代の東宝の代表作には、市川崑総監督『東京オリンピック』(1965年)、岡本喜八監督『日本のいちばん長い日』(1967年)など。

松竹

「大船調」といわれた松竹お得意のメロドラマ路線が、収益を呼べず、1960年に城戸四郎社長が辞任。監査役の大谷博が社長となった。松竹ヌーヴェルヴァーグと呼ばれた助監督群が相次いでデビューし、大島渚監督『青春残酷物語』(1960年)、『日本の夜と霧』(1960年)、吉田喜重監督『ろくでなし』(1960年)、『秋津温泉』(1962年)、篠田正浩監督『恋の片道切符』(1960年)、『暗殺』(1964年)などの斬新な作品群を発表するが、日米安保改定問題を扱った大島渚監督『日本の夜と霧』が封切り4日後に松竹によって興行を打ち切られる。松竹を辞めた大島渚は独立プロ創造社を起こすなど、松竹ヌーヴェルヴァーグの監督たちは後に松竹を後にした。野村芳太郎は『拝啓天皇陛下様』などの人情喜劇、コント55号主演映画などを監督。山田洋次監督は『下町の太陽』(1963年)、『馬鹿まるだし』(1964年)などの喜劇作品を経て、1969年より男はつらいよシリーズを始める。この年代の松竹の代表作には、小林正樹監督『切腹』(1962年)、中村登監督『古都』(1963年)、『紀ノ川』(1966年)などがある。『宇宙大怪獣ギララ』(1967年)、『吸血鬼ゴケミドロ』(1968年)などの怪獣映画も発表するがヒットには至らなかった。

日活

大ヒットとなる和製西部劇渡り鳥シリーズ、流れ者シリーズが始まるが、本格的なテレビ時代の到来と日本の映画産業全体の斜陽化のあおりを受けた上に、アクション映画のマンネリ化、企画不足、石原裕次郎と小林旭の二大スターの人気低下、堀久作社長のワンマン体質からくる放漫経営などが次々に災いして1960年代半ばから業績は急激に悪化。その1960年代には吉永小百合、浜田光夫、高橋英樹、渡哲也、山本陽子、和泉雅子、松原智恵子、藤竜也、梶芽衣子、杉良太郎といった錚々たる新人スター達も生み出したが、退潮を食い止めることは出来なかった。一方、今村昌平が『豚と軍艦』(1961年)、『にっぽん昆虫記』(1963年)、『赤い殺意』(1964年)などの話題作を連発する。鈴木清順が『東京流れ者』、『けんかえれじい』(1966年)などのちに再評価も受ける傑作群を残すが、『殺しの烙印』(1967年)に不満を持った堀久作社長により解雇される。このほか、監督では熊井啓、浦山桐郎らを擁した。

大映

1960年代に入ると勝新太郎・田宮二郎が頭角を現すが、長谷川一夫・叶順子の引退(1963年)、永田雅一社長によって五社協定にかけられた山本富士子(1963年)・田宮二郎(1968年)の退社、市川雷蔵の急逝(1969年)で観客数の落ち込みが深刻になり、永田雅一社長のワンマンな放漫経営もあって業績は悪化。日本初の70ミリ映画『釈迦』(1961年)公開など大作映画路線も数作で終わった。この年代の大映の代表作には、『おとうと』、『ぼんち』(1960年)、『黒い十人の女』(1961年)などの市川崑監督作品。『妻は告白する』(1961年)、『卍』(1964年)、『清作の妻』(1965年)、『赤い天使』(1966年)、『痴人の愛』(1967年)などの増村保造監督作品。『斬る』(1962年)、『剣』(1964年)、『剣鬼』(1965年)などの三隅研次監督作品など。大魔神シリーズ(1966年)、ガメラシリーズ(1965年~1971年)などの怪獣映画も発表するがヒットには至らなかった。主な人気シリーズは以下の通り。

* 悪名シリーズ(1961年〜69年)勝新太郎、田宮二郎主演。
* 座頭市物語シリーズ(1962年〜68年)勝新太郎主演
* 兵隊やくざシリーズ(1965年〜68年)勝新太郎、田村高廣主演
* 忍びの者シリーズ(1962年〜66年)市川雷蔵主演
* 眠狂四郎シリーズ(1963年〜69年)市川雷蔵主演
* 陸軍中野学校シリーズ(1966年〜68年)市川雷蔵主演

独立系

羽仁進監督『不良少年』(1961年)、『ブワナ・トシの歌』(1962年)、若松孝二監督『犯された白衣』(1967年)、『処女ゲバゲバ』(1969年)などが発表された。

ATG

1961年に、日本アート・シアター・ギルド(ATG)設立(〜1992年)。非商業主義的な芸術作品を製作・配給した。第1回配給作品はイェジー・カヴァレロヴィチ監督『尼僧ヨアンナ』(1962年4月)。初の日本映画作品は勅使河原宏監督『おとし穴』(1962年7月)。以降、1968年には1000万映画の製作を開始し、新藤兼人、羽仁進などの独立系監督のほか、三島由紀夫(作家)、実相寺昭雄(テレビ演出家)、寺山修司(演劇)、田原総一朗(ジャーナリスト)、清水邦夫(演劇)などの異業種出身監督、黒木和雄、松本俊夫などの新人など、多くの出身者や作風に門戸を広げた。また1960年代後半には、ピンク映画出身の若松孝二など、そして大手五社映画を辞した大島渚、今村昌平、吉田喜重、篠田正浩、岡本喜八、熊井啓、増村保造、斎藤耕一またはフリーの市川崑などにも製作と発表の場を与えた功績も大きい。多くの作品がキネマ旬報ベストテンに選定されるなど高い評価を受け、70年代はもちろん、80年代後半まで大きな潮流となった。

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